「会社を辞めずにいるくらいなら、ホームレスになった方がマシだった」株式会社戦極MC代表・MC正社員ロングインタビュー(前編)

(写真:UMB2009 焚巻 vs MC正社員)

この数年間、いわゆる「バトルブーム」の到来・マスメディアからの注目によって、MCバトルシーンは大きく変化してきました。そのシーンの中で、「ブーム」以前から存在感を放ちながら、今や日本最大級のMCバトルとなったのが「戦極MCバトル」です。

今回は、「日本唯一の、MCバトル中心の会社」をつくり、大会やシーンを育ててきた、株式会社戦極MC代表・MC正社員さん(吉田圭文さん)にインタビュー。MCバトル界にとって激動だったここ数年間、正社員さんが経営者としてどのようなことを考え、シーンを動かされてきたのかをお伺いしました。

戦極MCバトル都内進出の理由は「とにかく運が良かった」

—まずは、株式会社戦極MCを起業されるまでの流れを伺わせてください。戦慄MCバトルは2007年スタートですよね。それまでも、イベントオーガナイザーはされていたんですか?

「NECO」っていう、DAKA(埼玉を中心に活動)が主催していたイベントがあって、それを手伝ってました。DAKAとは、池袋サイファーで最初に知り合ったんですが、当時は俺もラップをしていて、かなり色物だったんですよ。当時は下ネタラップばかりしていたし、ライブで裸になったり、アイドルのdisソングとかを出したり……それが28歳の時。今で言ったらゆうま(戦極17章出場。下ネタライムで会場を盛り上げた)みたいな感じ。続けてたら、めちゃめちゃ叩かれてるかもしれないですね。

DAKAはそんな俺のラップとかライブを褒めてくれて、それで仲良くなったんですが、「NECO」のイベントの中身が、開催1か月前なのに何も決まってない……みたいなことがあったんですよ。それはまずいだろ、ってことでオーガナイズを手伝っていました。SKY-HIや崇勲、磯友、TK da 黒ぶちとか、当時このイベントで知り合った人は多いですね。

—その前にもオーガナイズの経験はあったんですか。

いや、やったことないですよ。でも、勤めていた会社で、社員旅行の幹事をやったことはあって、その時唯一褒められた(笑)。こういう仕事向いているのかもな、とは思いましたけど。

以前ゆうまさんにインタビューした際に、もともと浦和BASEで開催されていたイベントにMCバトルを盛り込む形で、「戦慄MCバトル」が始まったと伺ったのですが、そこに正社員さんが関わり始めたきっかけはなんだったのでしょうか。

戦慄の運営は、途中までアスベストがやっていたんですけど、エントリーもお客さんも全然集まらない状態でした。戦慄は浦和BASE開催、っていうイメージが強いかもしれないですけど、すごく小さい大宮のバーとかで開催されたこともあって。VOLOさんが優勝した時なんか、エントリー16人でお客さんゼロだったんですよ。
アスベストは俺がDAKAのイベントを手伝っていたのを知ってたから、戦慄も手伝ってほしい、と言われて、気がついたらvol.9からは全部俺がやってた(笑)

—そして2012年、正式に戦慄から「戦極MCバトル」に看板を変えて開催されるわけですが……この年の戦極の動きを見ると、当時からかなり積極的にイベント展開されている印象を受けたのですが、既に事業化というか、「これ、お金になるな」みたいなことって考えてましたか。

いや、それはなかったな。というのも、戦慄も戦極も、並行して開催していたフルポン(Fruit Ponch)も、「今までとは違うやつらが出てきたな」っていう感じで、いわゆるハーコー勢からは許されてない感じがあったんです。実際「UMB」サイドの人たちと知り合うのも相当後だったし……。
今でこそ若い子たちが開いている「Mr.日本語ラップ」とか「凱旋MCバトル」とかって、その世代の子たちがかなり集まって認められている感じもありますけど、俺らの時代で言ったら、日本のHIP HOPって上の人たちがいて、その後輩たちがイベントを受け継いで続けている、みたいな流れがあったから、知らない奴らが突然やってきた、みたいな感じで気持ち悪がられてたと思うんですよね。「MC正社員って誰だよ!」って。

—でもその翌年の2013年、勤務先をやめて戦極に完全にコミットする決断をされています。改めてそのきっかけを伺っても良いでしょうか。

あんまり覚えてないんだけど……ひとつ言えるのは、勤めていた会社への気持ちが全くなくなってしまって。人間関係もぐちゃぐちゃだし、本当の不良社員みたいになってたんですよね。勤め続けることに限界を感じたことがまずありました。
一方で、戦極第1章がすごく面白い大会になったんですよ。この時にはお客さんも100人くらい入るようになっていました。大会後に、いつも通りYoutubeに動画をアップしようとしていたら、みんなから「もったいないから、DVDを売ったほうがいい」って言われて。しかもキャッスル(CASTLE RECORDS)のG.Oさんが「うちに置かせてください」って声をかけてくれたんです。でも1カメでしか撮ってなかったし、売れるかわからない……と思っていたら、1週間で予約が100枚入って、これはしっかりやったほうがいいのかな、って感じになりました。

—第1章って結局どのくらい売れたんですか。

200・300枚とかじゃないかな。ジャケットもペラペラだし、デジカメ1台で撮った映像だし、それでもこんなに売れるのはすごいなって思いましたね。イベントよりももちろんお金になったけど、この時点で、儲かるなんてことはやっぱり思ってなかったですよ。ただ趣味でやってたから、売上も運営費に回してました。

—それでいよいよ2013年、退職して独立されるわけですが……この頃、第3回高校生ラップ選手権がLIQUID ROOMで開催され、世の中的にもMCバトルが話題になり始めています。

そうですね……でも正直、「高ラなんてすぐ終わるだろ」って思ってたんですよ(笑)。スタジオでやってた頃「何これ?」って感じで見ていたら、めちゃめちゃ反響があったとか言ってて、嘘だろ?って。LIQUIDで開催された時に行ってみたら、これまでのMCバトルと客層が違っていてびっくりしました。戦極に来るようなお客さんは暗めの子が多かったんだけど、高ラにはマイルドヤンキーみたいなやつとか、女の子もかなりいて。
印象的だったのは、RACK VS HIYADAMのバトルで、HIYADAMが「スタイルならばまるでR-指定」って言ったら、お客さんが誰もR-指定のことを知らなくて、ポカーンとしてるんですよ。R-指定がUMBで名前を上げてきたタイミングだったのに……って驚いたのは覚えてますね。

—それをご覧になって、もっとMCバトルが広がる可能性は感じましたか。

そこまでは思ってなかったけど、ただひとつ言えるのは、そういう子達をいち早く取り込もうとしたのは俺だったかな。MC妖精やGOMESS、HIYADAM、HIBIKIはかなり早い段階で出てもらいましたし。

—戦極第7章はasiaで、初の本戦都内開催でしたね。これは第5,6章の盛況を見ての判断だったのでしょうか?

いや、実はこれ、自分からasiaを押さえたわけじゃないんですよ(笑)。この日浦和BASEが、BASE側のミスでダブルブッキングしてしまっていて、他の箱でやらざるを得なくなったんです。浦和BASEにも、「申し訳ないから箱代を一部持つ」って言われて、たまたま空いてたasiaでやることになって……それが結構うまくいって、「ああ、東京でもやれるんだ」って思って、それ以降都内で開催するようになりました。

俺はとにかく運が良かったんですよ。第7章の時に偶然東京でやれたこと自体も良かったんだけど、なかなかasiaとかでイベント打つのってハードルが高いと思うんですよ。それを当時のBASEの店長さんが一部もってくれてできたこと。ここで進出していなかったら、なかなか東京でやるタイミングは無かった気がしますし、今みたいにはなってなかったんだろうなと思います。
そもそもまず、1章の時G.Oさんが声をかけてくれたのも運が良かったですね。asiaで開催した時といい、G.Oさんには俺が嫌われ者だった戦極の初期から、本当に力を貸してもらっていましたね。

—正直退職されて、生計が成り立つ見通しはありましたか。

2013年の5章〜7章で、年間3本DVDを出していて、5章は2000枚売れてるんです。そこまでくると、これでなんとかやっていけるんじゃないか、とは思いましたよね。あとは貯金とか退職金があったので……それを切り崩していけば当面は大丈夫だろうと。でも、その貯金とかももって1年かな、とは思っていたので、1年やってみてもしダメだったら、他の仕事に就こう、とは考えていました。
退職するにあたって、アスベストとか、KENさん(KEN THE 390)とかG.Oさんとか、色んな人に相談して……家族にはもちろん反対されましたが、彼らにも「仕事を辞めないほうがいいよ」とは言われてたんです。MCバトルで飯が食えるような人はいない、って。でも辞めないよりはマシだなって思ったんですよ。
この先MCバトルが全く注目されなくなって、俺がホームレスになるってこともあると思うんです。でも前の職場に勤めて40年とか働くよりも、今こうやって戦極をやって、その結果ホームレスになるなら、その方がまだマシだなって今でも本気で思います。

本当のチャンピオン戦ができるまではやめられない、と思った

—2014年に入ると、改めてイベント数もかなり増えていますが、何か狙いはあったんでしょうか。

生計のことを全く考えていないといえば嘘になりますけど、俺は単純にいいバトルが見たかったんですよ。この時はギリギリ、オーガナイズも運営も1人でやれていて、スタッフもほぼいなくて。ただ、バトルファンが納得するような大会ができればいいな、と思っていて、がむしゃらだったっすね。

当時は特に、みんながやらないような大会をやろうとしていたかな。チコ(CHICO CARLITO)が優勝した「MV杯」とかも、当時優勝特典がMV、っていう大会はこれまでになかったし、「OSAKA八文字杯」も、関東圏以外である大会なんてUMBくらいだったからこそ、地方でやっていかないと、と思ったし。

とはいえ、毎回大会終わった後に反省して、みんなにキレたりキレられたりして……やっぱり結構しんどかったです。規模が上がるごとに、周りからも色々言われるようになってきたし、お金にも余裕があるわけではなかったし。俺も34歳で、35歳までは再就職するにしてもなんとかなるんじゃないか、って思ったから、第10章(渋谷VISIONで開催)で終わりにしようかな、とも考えていたんですよ。

でもその時アスベストに言われたのは、「辞めても絶対に幸せになれないよ」ってこと。「MCバトル以上にお前が輝ける場所はないし、他の仕事したってどうするの? 今から新卒の子とかと仕事やって、楽しいの?」って言われて、「確かに、これから再就職して、二十歳くらいの新人にバンバン文句言われるのも、それはそれで辛いよな……」と思い直したりもして。
あとは、第10章で、R-指定、チプルソ、鎮座DOPENESSにオファーしたんだけど、全員に断られたのが決定的でした。この節目でやりたかった「チャンピオン戦」ができなかった。それができるまで俺は終われないな、と。だから続けようと思ったんです。

—その翌年の2015年で法人登記しているのは、その燃えている気持ちがあったからですか?

いや、これは単純に……税金がやばいから会社にしろ、みたいなことを親父に言われて……(※個人事業3年目以降は消費税が課税されるが、法人成りすれば再度2年間免税となる)。とりあえず、事業目的とかも言われるがままに書いて、埼玉の法務局に書類を出しに行ったんですよ。何書いたか、全然覚えてないけど(笑)

(株式会社戦極MCの履歴事項全部証明書)

(企画・スライド:KANEKO THE FULLTIME  構成・文:Yasco.)